年上の人と話すと、割と誰しもが感じる「昔は~だった」について、「自分もこうなったらあかんな」と自戒を込めて書きます。
年上の方と話していると、時々「昔は…だった」という話が出てきます。
昔の話を聞けるのは、自分の知らない年代、経験を知る事が出来るので、有意義なことが多いと思います。
パターンの1つは「昔は…だったが、今は…こうだ」です。
これは単なる事実の比較なので、この比較に異を唱えることも、同調出来る部分もあるでしょう(少なくとも昔は知らないので「今は…」の部分だけでしょうが…)。
飲み会等で、この類の話で盛り上がれれば年代に関係なく有意義な話が出来ると思います。
で、厄介なのは、上の派生パターン「昔は…だった、『だから』(君達も)こうしないといけない、すべきだ」です。これが本当に厄介です。
例えば食事中「戦時中は食べ物がなく、今日食べるにも苦労した。だから食べ物を粗末にしてはいけないし、おかずで文句を言わない」てな話をされます。確かに食べ物を粗末にしてはいけません。
が、戦時中の話を持ち出して、主張に対する理由とする構造は「??」と違和感を感じます。
また仕事話でも「最近の若いものは、ちょっとした残業、徹夜で根を上げる。俺が若い頃は徹夜、残業当たり前で何百時間も仕事したんだ。だからお前達もがんばれ」があります。
(それ程前でもない)10年前と、今では考え方も(どの方向かは別として)変わりますし、もちろん周りの環境、全てが変化しています。
仮定ですが、10年前と同じ外的、内的環境であれば上記2つの言い分も分かります。同じ土俵で話をするわけですから。
これはこれで「僕には僕のやり方があります」と切り返して議論になりますが。
しかし、そんな仮定は成り立たなくて…しかも、だいたい言う人が年齢的に上(役職も上)なので「そうですね…」という薄笑いを浮かべつつ、消極的相づちをすることになります(苦笑)。
最初にも書きましたが、年長者の経験話に価値が無いというつもりは全然ありません。それは良い勉強になります。
自分もこうならないようになぁということと、せっかくの良い結論の理由が、あまり正当性の無いと、その結論自体が崩れてしまうことが多いよなぁということです。
※注意:この記事は旧サウスポーなエンジニアの独り言から移行し一部修正したエントリです。
Photo via Visual Hunt
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